●下関の辛子明太子の歴史について
下関って明太子が名物なの?
あまり知られていませんが、下関は今とは少し違う昔の辛子明太子が生まれた土地なのです。辛子明太子の原型が生まれたのは韓国ですが、たらこを二次加工して作る「辛子明太子」は下関から始まったと言われています。いわば下関は戦後における辛子明太子の中興の祖であり、日本での「発祥の地」として古くから親しまれています。
辛子明太子の原点
そもそもたらこ、つまり鱈の卵巣の塩漬けは、日本や朝鮮半島の漁師達により何百年も前から食べられていました。いつしか朝鮮半島ではニンニクや唐辛子と一緒に塩漬けするようになり、いわばたらこのキムチともいえる辛子明太子の原型が作られます。そして1910年頃の韓国併合時代、朝鮮半島にて日本人が初めてこれを商品化しました。
下関と韓国
韓国でキムチ風明太子が作られると、日本にもどんどん輸入されました。下関は韓国に最も近い港として輸入明太子の大きな窓口となります。
当時は鉄道設備も十分でなかったため、必然的に下関が辛子明太子・たらこの取り扱いに長けることとなりました。しかしこの後戦争がはじまると韓国の明太子も衰退し、明太子の取り扱い自体がなくなっていきます。
まぶし型の明太子
第二次世界大戦が終結した1947年頃、日本は物資が不足していました。この時代たらこの輸送などとても余裕がなかったのですが、弊社の創始者髙井英一郎が陸軍時代のツテをつかっていちはやく北海道からたらこを仕入れはじめました。
そして多くの人々の努力により、下関において塩漬けしたたらこに唐辛子をふりかけてつくる「辛子明太子」が生まれたのです。英一郎は旧国鉄などを中心に個人で辛子明太子を販売したそうです。
なお、この頃他所でも「明太子」が売られていた記録もありますが、近年の研究によりこれは「たらこ」のことを韓国時代のように「めんたい」と呼んで販売していたことがわかってきました。(※ただし諸説あります)
現代の明太子
この後1960年頃、福岡を中心に塩漬けしたたらこを唐辛子調味液に入れて二次漬けする現代の辛子明太子が生まれました。いつしか下関もこの現代の形になじんでいきましたが、振り返ってみると、下関は古くからずっと明太子を取り扱ってきた地域だったというわけです。